わが家の食器棚には開かずの扉があります。
30年間、めったに使われることのないお盆や菓子器を収納していました。
写真にアップしたのは7点の盆とけやきの器です。
お盆とは何?
20代の方にはなじみがないキッチン用品かもしれません。
お盆はお茶が入った湯呑みや、コーヒーカップを運ぶためのもの。
トレイとも言いますね。
15年前に80歳で亡くなった夫の父親は生前、工芸職人として長く働いていました。兼業農家として出勤前に田んぼを見回り、それからオートバイに乗って吹雪の冬の日もカンカン照りの夏の日も出社。
そんな義父の形見の品がわが家にはたくさんあったのです。
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義父が生きた証と思い、捨てられなかった
1枚目の写真にアップしたのは未使用品で、箱に入れてしまっておいた盆ですが、それとは別に、傷がついているものを6点、捨てることにしました。
けっこう決断するまで、時間がかかったのです。
それは義父からもらったものだからに他なりません。
形見といえるでしょう。
大正11年生まれの義父は私の実父とは違い、とてもまじめな人柄でした。
第二次世界大戦のときには兵隊として大陸に渡り、終戦後に帰国。それから、結婚して、4人の子をもうけ、末っ子が私の夫です。
モノも食べ物もなかった時代を生きた義父
手先の器用な義父は黙々と働く人で、名前は米作。
米を作ると書いて、よねさく。
夫の実家は田んぼを持っていますが、面積は少なく、義父は小学校を出るとすぐ丁稚奉公に行くことに。
家族に病人が出て、お金に困ったのです。それは昭和10年ころの話。
当時の東北は凶作が数年おきにあって、食うや食わずの人がたくさんいたそうです。10代の娘を売ることもめずらしい話ではありません。そのころの日本では、人身売買が合法でした。
赤線防止法が発令され、施行されたのは昭和33年~34年にかけて。
歴史はこのくらいにして話をもどすと、家族のために12歳から住み込みの仕事に就いた義父でした。穏やかな人柄で周囲への気遣いを忘れない人だったのです。
モノは人より寿命が長い
大正生まれの義父は会社で出た不良品を持ち帰ることがあり、それは捨てるに忍びなかったのでしょう。
75歳まで勤めて会社から帰宅の途中にわが家に寄り、まだ小さかった私の子ども達を見てくれることもよくありました。
それは大助かり。夫が経営する店はそのころ繁盛していて、私も忙しく立ち働いていたので。
「これ、使うといいよ。傷物だが、品物は良いから」
そう言って、お盆をよく置いて行ったのです。
今、改めて整理のために取り出して、「モノは人より寿命が長い」と、つくづく感じました。
職人が作った日本製はほんと長持ちがする。日本製は性能が良すぎるため、人の一生よりも、モノのほうがずっと長生き!
断捨離しないとモノに埋もれてしまう
今回、こちらの写真にある6点を捨てることに。
燃えるゴミで大丈夫だと思います。
木製の盆・トレーなので。
片づけを始めてみると、本当に所蔵しているモノや服の多さに気づかされます。
国民がせっせと買う支出を「国内消費支出」と言いますが、総務省統計局には平成27年度までの国内家計消費の金額が出ていて、モノを買う金額は徐々に減っています。
代わりに、娯楽やレジャー・文化への支出が微増。
「モノより体験へ」というライフスタイルの変化が見て取れます。
見方を変えると、きっと多くのご家庭でモノの始末に悩んだり困ったりしているのではないでしょうか。
捨てていかないと、モノの海の中でおぼれてしまいそうです。
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ライフスタイルの変化に合わなくなった昭和の遺物
かつては来客があると、お盆に載せてお茶の急須や茶碗を座卓まで運んだものでした。
でも、いま飲み物はペットボトルですし、椅子とテーブルの暮らしが定着。
それで、お盆もあまり使いません。
また、結納などで大きくて四角いお盆に、うやうやしく目録を載せることもないでしょう。
お盆は昭和の遺物となりました。そして、貯め代も化石のようなお婆さんに?!
いやいや、そうはなりたくありません。
美魔女とまではいきませんが、そこそこキレイな女でいたいものです。
将来を活き活き過ごすために断捨離することを、亡くなった義父は理解してくれるはず。
4月28日は義父の命日。
「ありがとう」と言いながら、燃えるゴミに出します!
まとめ
家族の数だけモノのストーリィがある。モノが語るから、物語と言うのでしょう。結婚生活30年の節目に、義父の形見を少し処分しました。
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